『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』を読んだ

各章のコアメッセージ

第1章

・日本企業における必要経費方式による給与体系では、必要経費の積み上げ=労働の再生産コストに見合うだけの給料しかもらえない。

・商品の価値=原料の価値の積み上げ+社会一般的にかかる平均労力

・商品の値段=価値(ベース)+ 需給関係、使用価値etc.(オプション)

・労働力を商品と捉えると、労働力の値段=給料は、労働を再生産する(明日も同じように働く)ための価値をベースとして決定される。

・ただし、スキル習得のための労力の積み上げも、労働力の価値に加算される。

・会社による給与の差異は、「価値」ではなく「使用価値」の差異がうむマーケット内の需給関係によって生まれる(アディショナルなものである)

第2章

・企業の利益の源泉となる剰余価値は、おもに

(労働者が生み出した付加価値)ー(労働者の給料)の差異によって生み出される

・企業は労働者から「1日分の労働力」を買い取っている。この権利を行使しつつ、できるだけ多くの絶対的剰余価値を得ようとする=長時間労働の正当化。

イノベーションはやがてコモディティ化する。資本主義の構造は「技術革新&コスト削減による特別剰余価値の創出」であるが、特別だったものはやがて「世間平均」となる。

イノベーションユニクロ、低価格スマホなど)により、労働者が使う生活手段の価値が低下

=必要経費を元に算出される労働力の価値が低下

=必要労働時間が減り、企業のために働く剰余労働が増加

・終わらない競争(ラットレース)という資本主義のジレンマを脱却することはできない。その中でうまく生きる方法は?

第3章

・労働力を商品としてみれば、使用価値(成果や利益)だけでなく価値(仕事ができるようになるために積み上げた労力)が不可欠。なぜなら、給料は価値ベースで決まっているため、労働力の再生産に必要なものの量(=価値)が多ければ多いほど給料も多くなるからである。

・使用価値(インセンティブやノルマ達成、残業)に頼った働き方は、体力と精神力を削り毎日全力でジャンプするようなものである。

第4章

・自己内利益=年収や昇進から得られる満足感 ー 仕事に費やした労力や苦痛や時間

・年収を最大化することではなく、自己内利益のリターンを最大化すべし

・上を目指し、人生の損益分岐点を上昇させ続けても、激務だけが残る(年収があがっても、コストだけが残る。そして元のレベルにはもう戻れない。人間は喪失感を獲得した時よりも強く感じる生き物)

第5章第6章

・必要経費を下げる方法=精神的苦痛を減らすこと 

※好きな仕事、得意な仕事ではなく「興味を持てる仕事」

・満足感を挙げる方法=労働力の価値のベースに加算される、過去からの積み上げを利用する

・「土台」を作るためには労働力の消費ではなく投資が不可欠

・労働力の投資は、知識やスキルが陳腐化しない(賞味期限が長い)フィールドで行うべし ex.会計知識や営業力

・身につけるのが大変、「かつ」使用価値がちゃんとある知識や経験を身につける

・PL思考よりBS思考:短期的利ざやではなく、将来の利益を生み出す資産の多寡に注目しよう

・労働力の投資は10年スパンで考える(長期的)

 

感想

○資本主義における労働のあり方についてはまさにそうだなぁと。「資本論」を読んだことはないが、一日分の労働力を搾取されているのは不都合な事実である。経営者は労働者に剰余価値を生み出させるために夢や「圧倒的成長」を掲げるが、実のところエゴイズムである。

○転職をしても、結局同じ資本主義の構造の中であって、アディショナルな部分での違いしか生まれないのは当然か。しかし、だからこそアディショナルな部分で差をつけるべく念入りに安定した高収益業界(化学や金融など)を選ぶのだと思われる。

○少なくとも一流大企業においては、「労働力の再生産のための給与」以上の給与が安定して出されていると思われる。もちろん、大企業であってもラットレース不可避であるばかりか、役職者は激務であることが多い。

○自己内利益を最大化する方法として、精神的苦痛の軽減は予測不可能であるばかりかぶれが大きい。ストレスは定性的であり定量的に評価しづらい。一方、年収に紐づいた満足感は上限が青天井であり、利益最大化の手段として見込みがあるように思える。しかし、企業の社員としている限りはやはり上限は設定されているものであって、青天井ではない。とすると、満足感を無限大にしていくためには①経営者になる②不労所得を得る(投資を行う)しかないのではないか。

○左の項「年収や昇進による満足感」よりも「生活の余裕による満足感」「仕事への興味や楽しさによる満足感」も加味するべき。右の項に関してはどんな仕事であっても(ホワイトカラーであれば)さほど変わらないと思われる。精神的苦痛はどんな仕事にしても存在し、労働時間も8~12の間を推移するだけであろう ※外コン、スタートアップ経営者などを除く。

 

○Q.自分にとって精神的苦痛の少ない(興味を持てる)仕事とは。

①精神的マイナス面の低減:ハードな交渉がない、飲み会強制がない、海外を飛び回らなくてよい(環境の急激な変化×)、職場におけるダイバーシティの軽視や差別発言がない(これが一番大事かも)

☆総合すると、国内に顧客多い、多様性を重視する風土、サバサバ←コンサルやんw

逆に無理なのは商社金融不動産重厚長大メーカーとかかしら。ほとんど無理やん。社会向いてない

②興味を持てる:企画できる仕事、ハードよりソフトを作る、BtoBのお堅い内容(エンタメ系広告系のようなちゃらちゃらしたのは嫌い)、深い仕組みを学ぶ必要あり、個人の裁量大きすぎは×

○それを作るために長期にわたって投資したい「土台」:

陳腐化しないものとしてまず思い浮かんだのが英語。→当面(2~3年以内)は自学で足りるが、結局業務内で使わなければ上達もしないのではないか

つぎに営業力。これはもうゼロからのスタートなので、目の前のノルマにとらわれることなく自分なりのスタイルを数年以内に確立する。

職場で、できるだけ人事HR領域の専門的な知識を身につけることのできる部署に配属されることを祈る。もし、そこで労働力の「消費」であって「投資」にならないような業務が続くのであれば、早いうちにシフトチェンジをすべきであろう。

○この本のメッセージによれば、総合コンサルタントは次々に新しいプロジェクトにアサインされ、当面はアナリストとして奴隷労働に従事させられるという意味で、経験を資産化しづらいのではないか?(とはいえ戦コンであればMBAなみの陳腐化しない知識が身につくとは思うけれど…)

○とりあえ労働力として搾取されながらも同時に資産形成にもなるような仕事ってそんなにないんじゃないの、という。理想論過ぎるけど、ある程度陳腐化しないメソッドなどを習得してから独立するのがいい、と言っているようにしか聞こえない。他の人が身につけようと思っても身につかない能力ってほとんどないと思う。しいて言えば他の人が継続していないことをやり続ける、って事かしら。スペシャリスト寄り?(あるいはスペシャリティの掛け合わせ。)

○人生全般において「消費ではなく投資」思考の重要性を感じた。とくに若いうちはそうなんだろうなあ

 

 

児童合唱の普及と共有について

児童合唱の普及と共有について

 

私が今後普及、共有されていくことを願っている文化・芸術は、「児童合唱」である。「児童合唱という音楽ジャンル」と「児童が合唱をする文化」の両方を含む。

 

1.児童合唱の定義と内容

 

(1)定義

 今回問題にする児童合唱は、クラシック音楽の文脈で用いられる子どもの聖歌隊や「ウィーン少年合唱団」のような職業的な児童合唱ではない。戦後日本で、学校や自治体、公共団体を母体として、児童の音楽教育・情操教育を目的として盛んになった合唱のことを指す。

 

(2)内容

 「児童合唱」がジャンルとして確立するのは1960年頃の「児童合唱ブーム」を契機とする。児童合唱のジャンルとしての確立は、すなわち組織としての「児童合唱団」の勃興と一致する。NHKでは「みんなのうた」「歌のメリーゴーランド」などが全国放送を開始し実力のある児童合唱団のニーズが高まった。このころ全国的に少年少女合唱団が設立され、歌の好きな児童たちが加入した。総じてレベルは高く、活動は定期演奏会のみならず、オペラやメディア、公的セレモニの出演も中心となる。演奏会においても、クラシックのレパートリーも含め、長時間にわたり大人顔負けの演奏を見せる。こうした合唱団は、プロの声楽家が指導をし、中学生・高校生もシニアとして所属することが多く、層は厚い。現在は少子化の影響から団体数は減少傾向にあり、合併や閉鎖も多いものの、地方自治体などに貢献するという意味ではニーズはあり、活動の幅も広い。また歴史ある団体であればOB/OGによる存続への努力も強いため、運営は安定的に維持されている。

 一方で、学校の授業やクラブ活動が発展したタイプの児童合唱団もある。こちらは音楽教師の一存によって始められることが多く、一時的・泡沫的である。この場合、「○○小学校合唱団」といった名目で課外活動の枠組みに位置づけられ、主に4年から6年生が所属し、卒業とともに退団する。ベースは教育的理念であるので、クローズドな場合も多いが、学校の音楽会や地域のイベントなどで歌う機会を設けるのが通常である。実力のある学校は、定期演奏会を行い、学校単位で出場が可能なコンクールで入賞を狙う。少子化にもかかわらず、80年余りの歴史を有する「全国学校音楽コンクール」の出場校数は年々増加している。

 

2.児童合唱について共有する価値

 

(1)芸術的価値

 児童合唱はすべてアマチュアの、それも子どもたちによる演奏であるため、未熟なものであると見なされ、「ほほえましい」視線が向けられる対象となってしまう。癒しの効果や文化的で健全というイメージがあるためか、学校や地域の文化祭や老人会、成人式などがその演奏の場となる。芸術的な価値を持っていると考えられているのは、NHK東京児童合唱団や杉並児童合唱団など、「由緒正しい」団体による演奏だけで、氷山の一角に過ぎない。しかしこれは、児童合唱が受ける正当な評価だとは筆者は思わない。

 児童合唱は、少年少女時代にしか出すことのできない澄み切った声がその魅力であり、発声方法はいわゆる大人のコーラスのものとも微妙に異なり、子どもらしい清冽でストレートな声を実現する。また、曲の純粋性も魅力の一つである。歌詞については、定番テーマである「恋愛」「宗教」には決して立ち入ることがない。日常的な情景や子どもの心情を描いた歌詞や、勇気や希望を歌った詩、わらべうた、民謡などが中心である。昔ながらの素朴で美しい日本語が子どもの声に乗せて運ばれるとき、ただ単に「ほほえましい」ものではなく、郷愁を帯びた感動をもたらす。また、メロディーも同様に日本語を活かすフレーズ感に満ちており、ハーモニーも機能和声に従いながらも、児童の声域の狭さゆえに緊密な和音が展開されるため、満腹感の高い実演となる。

 また、楽曲が快さを与えるだけではない。コンクールなどの「本番」の場面において、舞台に慣れない児童が全身全霊を込めて、信頼関係を築いている指揮者(指導者でもある)のほうを見つめながら歌う姿を見て、児童ひとりひとりの気持ちに思いを馳せれば、「これが彼の一生の思い出になる大舞台なのだ」と、児童の成長の瞬間に立ち会っているという感動を誘われることは必至である。

現状、児童合唱は「聴くもの」として音楽のジャンルに組み入れられることはほとんどない。しかし、このように、児童合唱は子どもたちの道徳涵養のための道具や、場を彩る余興などではなく、真の「音楽芸術」として評価されるべきものである。

 

(2)教育的価値

 合唱団は児童の教育を目的としている場合が多く、この価値が本来的である。音楽教育の価値そのものには言及するまでもないが、課外活動として合唱を行う意義は多分にある。

 まず、異なる学年(場合によっては異なる地域)の子どもたちが集まるために、上下関係や規律を身に付けることができるし、「遊び」ではないから、教え・教わりあう関係性を構築することができる。また演奏を発表することを通じて、自己実現の楽しさや芸術の喜びに触れる機会を得られる。

 この価値はほかのクラブ活動でも同様だという指摘は当然ありうる。しかし、たとえば合奏クラブであったらどうだろうか。合奏にはさまざまなパートがあるため、どうしても孤独な練習が中心になってしまう。また、合唱団にあるようなチームワークを高める練習(ダンスや運動、体操など)を行うこともない。合唱はすべての児童が同じ声の魅力を高めるために練習をするので、児童間の交流が生まれ、ソーシャルスキルの醸成に役立つ。

 

(3)文化・社会的価値

 地域社会や学校社会は、児童合唱の芸術的価値を低める場となりがちであることを先述したが、その一方で、発表の場があることを通じ、地域コミュニティに対しては、児童合唱が社会的な価値を提供している。

 普段コミュニケーションをとることがない児童と、地域社会の構成員(特に親族でない高齢者など)とが触れ合う機会があることは、地域の活性化には欠かせない要因である。

 また、実力のある合唱団であれば、遠征をして演奏活動を行う場合もある。最もポピュラーなのは「チャリティコンサート」である。たとえば東日本大震災後には、児童合唱団によるチャリティコンサートが多数開かれ、「花は咲く」といった復興ソングが歌われた。東北に遠征をした場合もあるだろうが、そうでなくても、それぞれの地域でこうした歌が歌われることで、全国の人々は心の傷を癒した。

 「復興の歌プロジェクト」などでは、やはり児童合唱団に多くの出番があったようだ。

 子どもたちが歌う習慣を身に付け、歌を端緒として音楽の素晴らしさに目覚めることは、長期的な視座に立てば、世代を超えて多数の歌を受け継ぎ、日本の音楽人口を増やし、音楽文化全体を促進することにも繋がる。

 

3.児童合唱の価値を伝えていくために

 

(1)なぜ「合唱」ではなく児童合唱なのか

 「合唱全体」をテーマにしてもよかった。されどもやはり、合唱の中でも児童合唱こそ、日本での普及が危機的に不十分であると考える。

 たとえば中学生高校生の合唱であれば、なぜか学校行事の鉄板となり果てた「校内合唱コンクール」が全国中の中学校で開催されているだけでなく、部活動としての地位も確立している。また、発声やレパートリーはその後の大学合唱や日本の合唱界・声楽界にも関連性があるものであり、合唱界全体をまたいだ指導人材の流通や大会を通じた相互刺激が多分にあるだろう。その中で、唯一孤立しているのが「小学校合唱」「児童合唱団」なのである。

 児童合唱の構造的特徴はたった1点である。それはすべての問題の根源でもある。それは担い手が児童であることに尽きる。児童は立場が弱く、自分たちの意思やムーブメントを起こしたり合唱団を作ったりすることは不可能である。そのため、「ボーイスカウト」のように、大人たちによる強力な指導者のシステム化、親をも巻き込んだ組織化が必要になる。

 

(2)普及状況と、普及が芳しくない原因

 普及状況として、福島県などの合唱先進県を除けば、危機的な状況であると言わざるを得ない。たしかに、少年少女合唱団は全国に散在し、「全国学校音楽コンクール」にも関西地方を除けば多くの学校が出場している。しかし様々な面において、まだまだ豊かさに欠けるのが実情である。

 

・曲がない

 最大の問題は、児童が楽しく歌いたくなるような、そして大人が聴きたくなるような曲がほとんど存在しないことである。そのため、合唱団では何十年も前に流行った「遺物」のような曲を飽きもせず歌い続けている。確かに古き良き名曲を伝えることも大事だが、はたして現代の子どもたちにそぐった選曲だろうか?マンネリ化して時代錯誤的ではないだろうか?また、教育目的が強調されすぎて、作品として内容のある音楽を作るという認識が業界にない。そもそも、作曲家や作詞家に十分価値が伝わっていないし、産業として「カネにならない」ため、児童合唱曲を書くインセンティブ自体が少ない。現状出回っている合唱曲は、「合唱普及会」などによる寡占状態であり、良質な新作もあまり出なくなっている。

 

・活動できる組織が限られている

 活動できる組織は「学校」か「休日に活動する少年少女合唱団」に限られており、選択の幅が狭い。また、組織間の交流や情報交換はほとんどない。音楽専科であれば多少は楽かもしれないが、過労寸前の教師にできることは少なく、また学校側の理解がなければ充実した活動ができない。民間であっても、よほどバックに強力な母体がなければ、団員から集めた少ない団費でなんとかやり繰りしているのが実情である。

 

・男子の問題

 男子は変声期を迎えるため、最も歌唱技術が発達した6年生でその実力を発揮できなくなるリスクがある。また、思春期の照れなどにより、男子部員は極めて少ない。しかし男子大学生からは、合唱サークルが大人気である。将来的に歌いたくなる人がこれほど多いのであれば、児童合唱団がしっかり男子児童も取り込み、歌唱の素地をマスターさせるべきである。

 

・「聴く」文化がない

 大人が耳を澄ませて児童合唱を聴く文化はない。現状、いたとしたらそれは「もの好き」でありややもすれば「ロリコン」であるとされてしまう。(実際、筆者も誤解を招くのが怖いために、児童合唱マニアであることを公言することははばかられてしまう。)そのため、「全国学校音楽コンクール」などの最中には2ちゃんねるなどの掲示板で隠れファンたちが大盛り上がりしている。このような児童合唱を取り巻く文化圏が閉鎖的であることは、改善されねばならない。

 

・メディアの影響

 時代的な背景を考えると、テレビなどのメディアでJ-POPやアニメの主題歌が流れっぱなしであり、それを視聴している小学生も、自然とそういった流行りの曲を口ずさむようになる。教育用の楽曲(童謡など)のターゲットは幼児~小学校低学年であると考えられる。小学校3~6年生が楽しく歌えるような曲が存在しないため、音楽の授業で取り扱ったとしても全く気に入らず、自然とそのようなメディア発の曲に慣れ親しむしかなくなるのである。

 

 

(3)どのような仕組みがあればよいか

上記のような問題を解消するために、どのような仕組みや制度を作れるだろうか。文化財のように条例のような法的措置をかけることはできないため、草の根の活動が非常に肝要である。

 

・産業として成立させる

 まず、価値をプロの音楽業界にしっかり届ける仕組みづくりが必要だ。現状、現場から作曲家や作詞家にアプローチする場がほとんどない。そのために、同じ作曲家から次々と錯誤的な新作が生まれて、その年にはどの合唱団もそればかり歌っている、という状況が発生している。

指導者などの現場のニーズを伝えるようなネットワーク(オンライン上でもよいだろう)を作り、作り手と受け手の関係を可視化する。また、演奏者の候補は、ソロ曲とは違ってある程度団体として外部に見えているため、もっと委嘱作品があるべきだし、お偉いさんでない作曲家であっても実験的に曲を沢山作れるような業界にすべきである。

 また、隠れたファンをしっかりと産業にコミットさせる。そのためには開かれた交流の場として、「ダサくない」演奏会を開き、SNSなどで告知をするとよいだろう。児童合唱を聴くことが趣味として市民権を得るようになれば、これまで聴衆=保護者でしかなかった児童にとっても、真の意味で「お客様に聴かせる」機会を得ることになり、本来の教育的効果が発揮される。

 

舞台芸術の主役にする

 児童合唱の強豪校である七生緑小学校は、2015年に作曲家の若松歓によって制作された児童合唱ミュージカル「太陽のうた」を上演し、DVD化を果たした。これは児童合唱界にとっては画期的なものだった。元来ミュージカルやオペラにおいて、児童合唱は脇役でしかなったが、児童合唱オンリーのミュージカルを作ることでその主客を逆転し、既存のイメージをくつがえした。本来、児童は体の動きを伴って自由に自己表現するのが得意であり、姿勢正しく立って歌う曲だけではその真価は発揮されない。今後、「子供には無理」と考えず、児童を主体とした音楽劇やミュージカルを制作し、大人が舞台を用意するプロジェクトを進めていくべきである。

 

・母体に多様性を持たせる

 現状限定的である母体に多様性を持たせることが必要である。たとえば、「市」や「学校」という枠組みから離れ、「箱」である市民会館や私設ホール、オペラハウス、芸術劇場が専属の児童合唱団をもってもよいだろう。また、経済的に余裕のある企業がCSR活動として、児童合唱団を組織すれば、お金のかかる委嘱作品の演奏や企業とコラボした演奏機会などが可能になる。

 さらに、教育の可能性を考えれば、学校や客演指揮者の合唱団にありがちな「指導者まかせ」の問題を打破するべく、ヤマハ音楽教室などの教育系企業が、グループレッスンの選択肢として、歌のアンサンブルやミュージカルの教室を開くべきであろう。「習い事」として集まったもので児童合唱を練習することが当たり前になれば、非常に未来は明るい。

 

<参考サイト>

http://www.nhk.or.jp/ncon/

http://fukkou.sunnyday.jp/?page_id=2

http://www5d.biglobe.ne.jp/~yakata/japan.htm

http://www.e-nanaomidori.hino-tky.ed.jp/index.php?key=johdyzi3g-128

演奏会を終えて

今日は東大ピアノの会の八月演奏会(1日目)があった。その反省と感想です(個人の演奏に対する言及はありません)

尻の骨が痛くなるので2時間と座って聴いていられない私にしては珍しく、一部を除きほぼ全てのプログラムを聴いた。そのかいあってか、いろいろとピアノの演奏について思うことがあったので忘れないうちに書いておく。

ピアノの会の会員は十人十色の弾き方、個性を持っているので、それらを比較しながら鑑賞すると、プロのコンサートやコンクールの見学では得ることのできない示唆があった。

本日のピアノはベーゼンドルファーのインペリアルであり、非常にくせのある楽器だったので一部からは不評のようだった。(ピアノの先生も、インペリアル290は大きすぎてバランスの悪い楽器なので270か200が一番良く鳴るし音もいいと言っていた。)

しかし、楽器の良さを引き出して豊かな音を鳴らせている人はやはり一定数はいたので、普段どれだけきめの細かい音作りができているかが問われたのだろう。これは楽器が「合う」「合わない」を超えた問題意識を含んでいると思う。人によってアプローチの仕方は違うものの、明らかに楽器が奏者をはねのけているような印象を持たせる演奏というのはある。よい楽器は、われわれにどのように近づいてほしいのか、必死でメッセージを発しているのであり、それを汲み取ってやらないといけない。6つ思ったことがあるのでとりあえず羅列する

 

・1つめ 

音が命。いかに音楽的に弾いていようが、音の悪い演奏というのはその価値を半減させるし、聴く気になれない(主観)。よい悪いは人それぞれかもしれないが、音のよさ悪さに対して気配りのない演奏はすぐにわかる(音が変わらないから。)演奏の出だしで音がいまいちでも、途中で気づいて変えている。その対応力は普段の練習で感受性を発揮することの積み重ねが生み出す。

あと良いホール、良い楽器を使うと少しの違いが音響効果としては大きな差をつけるのであり、そこに敏感になれない限り一生ピアノは上手くなれないはず。どういう音にするのか、そのためにはどういう習慣をつければよいのかを考える。また、適切な音を作ってタッチに乗せることができない(余裕のない)曲は選択しない勇気が必要。残響の多いホールでは、全ての音を的確に打鍵できているか以上に、それらの質が均一化しないことが何より大事で、まだら模様にしか聞こえない。

均一な質の演奏は聴くものをはじめは安心させはするものの、つまらない。

 

・2つめ

音と音の間を考える。打鍵は通過点。

音に薫る風を吹かせるということは私の毎回の演奏の目標であり、いまだに達成できない理想だ。ピアノが減衰楽器であることを最大限に考慮し、その欠陥をマスキングする技術を習得せねばこの目標は達成しない。

打鍵が終わったらつねに次の打鍵のことしか考えていない、意識が次の音にまでワープしてしまう演奏はとても残念だ。実際に出てくる音も階段状になっていて、レガートとは言い難いものである。連続的に意識を移行させる練習、身体を突発的に使わない練習、ゆっくりと、じんわりと動く練習を徹底したいものだ。

少し先のメロディーまでを視野に入れながら演奏を進めること。

鍵盤に対して指や腕を突き立てるように弾くことを禁じ、つねに上体のどこかに緩衝材となる力の逃げ道をつくりながら弾くこと。

 

・3つめ

意識の中心を動かさない。弾いている時に身体を振り回したり首を前に出したりすることで、統御の中心がばらばらになる感覚を得る。自然な上体の動きは歓迎されるものの、できるだけ身体と意識の核?が一致するようにすべし。

自分が楽器に対して体を持って行かれたりすることのないように。(姿勢が前のめりになるのは音楽に没入することと楽器に没入することとの区別が付いていないから。)楽器の音を吸収するのが自分で、自分という核から次の音に対して指令を出すことで反応を返す。

 

・4つめ

指先の感覚。指先の感覚がしっかりしていないから、ほかの部分に力を入れて制御をしようとする←ホウキを振り回しているのと同じこと。

肩、肘の関節を柔らかく保つ(たとえ柔らかく保たなくても弾ききれてしまうので怖い。弾ければいいってもんじゃなく、よりよいフォームを考えるべき)

鍵盤に対してはonとoffだけがあるのではなく、鍵盤を押し下げて発音に至るまでのスピードをコントロールすべき。「弾く」という段になってボタンを押すかのようにonにするだけでは二色刷りの版画のような音楽にしかならない。

 

・5つめ

ホールの響きを考えながら練習する。ホールでの印象を決定する8割は発音の瞬間ではなくて発音の一撃から広がる響きである。白い和紙に水彩絵の具をポタっと落とすような気持ちで、どのような模様が広がっていくのか想像すること。また、残響やペダルの中でほかの音とどのように混ぜ合わせるかを考える(混ざり合わない演奏であればピアノを使う必要はない)。

 

・6つめ

選曲をしっかりする。1~5で述べたことを実現するためにあらゆる環境を整えるのは並大抵のことではなく、その場合実現できそうなレベルにまで曲を落とすことも必要。自分の音に対する解像度を正しく把握すること。全ての音が鳴らせるようになりそうか、ではなく、全ての音に対して意味付けをし、内面化するまでの余裕があるかを指標とするべし。